2月13日(日)に、昨年12月13日、14日に実施された「ボトナム通り」リニューアルプロジェクト 発足式報告会を開催しました。
報告会は、プロジェクト事務局長である飯田和広からの概要報告ののち、2日間のダイジェスト映像が流され、代表の川崎栄子氏から、プロジェクトの背景、意義と展望が話されました。
以下に要点を抜粋します。
―北送事業の経緯
■日本の植民地統治が終わった時点で、日本には200万人ほどの在日コリアンが住んでおり、解放後、さまざまな事情で日本に残った人たちがいる。川崎氏自身の家族も、韓国の故郷に戻る準備をしていたが、川崎氏自身が病気になって戻ることができなかった。日本を永住の地として選んだ人たちも当然いる。
■1945-46年、在日60万人と言われるコリアンが残り、その後、朝鮮半島の人々の意思には関係なく南北が2つに分断された。分断された朝鮮半島で1950年、朝鮮戦争が起こり、3年間、同族の血で血を洗う戦争が行われ、休戦協定が結ばれた。
■南北コリアは廃墟となり、その中から立ち上がる必要があった。38度戦以南には資源がなく、農業が主だった。以北では工業地帯であり、戦後の労働力に穴が空いていた。それをどのように埋め合わせるのか、という段階で在日コリアンの労働力に金日成が目をつけた。
■北朝鮮を支持する団体は様々な団体があったが、朝鮮総連と改名し、北朝鮮を支持する団体として固定された。北送事業が決定され、日本の全ての政党やマスコミも協力し、事業が進められた。
―北送事業の問題点
■朝鮮総連が北朝鮮を認識させる際に、「地上の楽園」という宣伝文句が使用された。朝鮮総連からの情報のみが頼りとなる在日コリアンは、その宣伝により大きな勘違いをすることになる。1959年12月14日に第一次北送船が出発。その際、日朝親善の意味を込めて306本の柳の木が植えられ、「ボトナム通り」と命名された。
■北朝鮮に到着すると、歴史が300年くらい後戻りした、という感覚だった。舗装した道路はなく、牛車が運送手段であった。
―北送事業で北朝鮮に渡った人の苦労
■厳しい経済状況による肉体的苦労。徹底した階級社会による精神的苦労。日本で宣伝されていた北朝鮮ではない、ということがすぐわかった。しかし、両政府は事業をすぐに止めることをせず、1984年まで事業が続いた。
■北朝鮮に渡った人は、地獄のような苦しみの中で毎日命を奪られるのではと思いながら暮らしており、自殺をすれば、自殺者を出した家族が数日後に追放される、死ぬ自由もなかった。事業で北朝鮮に渡った人は今もその苦しみの中に置かれている。
―脱北した人の中には
■脱北者は日本に200人くらいと言われている。その中で、北送事業からの帰国者は5-60人くらい。実際に生きて日本に帰ってきた者として、北朝鮮の人権状況を伝える活動をしている。
―北朝鮮の人権状況を伝える活動としての「ボトナム通り」リニューアルプロジェクト
■今行っているボトナム通りリニューアルプロジェクト、一昨年60周年行事を行ったが、もともとあった306本を自由と人権の象徴として植栽しなおす
■北送事業の資料館を作成すると同時に、半分は拉致被害者の方々のスペースとしたい。また、新潟から北送船に乗って93340人の方々の名前を刻んだ碑を作成し、全世界に向けて発信したいと考えている。そうして、新潟を日本の自由と人権を象徴する都市としたい。
そのためには、現地の方々の協力が必要だし、新潟市議会の方々の協力。ゆくゆくは韓国政府、日本政府にも協力要請をしていきたいと考えている。
質疑応答
■「ボトナム通り」リニューアルプロジェクトのために具体的に協力できることはありますか?
>資金協力、プロジェクトを進める上で莫大な資金が必要。また、モドゥモイジャやAKU Japanへの加盟という方法でも協力が可能。
■穏やかに催し物を進めていて、本当のところはどうなのか?
>積極的な行動をしている。北朝鮮政府を相手取った裁判もその一つ。「命を狙われていませんか」という質問をされるが、命をかけても十分だと思っているので恐怖心を抱いたりはしない。
■お金はどこから捻出するのか。新潟市の方々はコロナ対策に使ってほしいと思っているのではないか。
>今現在、寄付金以外に資金源はないので、日韓両政府にも働きかけていきたい。私事として行なっているのではないので、様々な人に協力を求めていきたいと考えている。
■柳の木を植えるのに新潟市の協力は必要か。
>もちろん必要。「ボトナム通り」新潟市の公道なので、新潟市の協力がないとできない。また、市の方々の賛同と許可が必要な規模な事業である。短い将来に許可が得られるものと思っている。
以上のような議論が行われました。