朝鮮高校入学の経緯(川崎栄子)

(YouTube「北朝鮮の極端的恐怖」2021年6月4日の投稿より)

 

みなさん、こんばんは。脱北者の川崎栄子です。

 

私は現在、78歳です。前に少しYouTubeを始めたのですが、あまり自信がなくて、止まってしまっていました。

 

でもたくさんの方から「もっと知りたい」とおっしゃるコメントをいただきまして、下手くそでもまた再開したいと思いますので、よろしくお願いします。

■韓半島の統一という大きな事業にご協力ください

まず、私は日本で生まれて高校三年生の時に北送事業という波に乗って、家族を日本に残したまま、一人で北朝鮮へ行きました。そして43年を北朝鮮で暮らして、脱北し、44年半ぶりに日本に返ってきました。

 

このYouTubeではその私の人生を少しずつ振り返ってみたいと思います。そうすることによって、私が行った北朝鮮というのがどういう国なのか、現在、どういうことが起こっているのかを、知っていただき、これから先に解決しなければならない「韓半島の統一」という大きな事業に向かって、みなさまのご協力をいただきたいと思っております。

■「お前の入学願書を取り返してきた」という父

私が中学を終わって高校へ進学する頃に、まだ日本は行動成長期に入る前の苦しい経済状況が続いていた時でした。私は何も深く考えずに当然、高校へは行けるものと、学校で入学願書を提出しました。家へ帰ってきて、その話をしたのですが、翌る日、午後になって父がどこかから帰ってきて「栄子、ここへ入ってきて座れ」と言いました。

 

父の前に座りますと、父が「俺は今、中学校へ行って、お前の入学願書を取り返してきた」と言いました。「入学試験を受ければ受かるとわかっているのに、受かった後、行かせられないのはもっと辛いと思うから、初めから入学試験を受けないで欲しい。だから願書を取り戻してきた」と言って、大粒の涙をボロボロこぼしました。

 

私はその言葉を聞いた時「うわーっ」と泣きました。父が私を抱き抱えて「ごめんな、ごめんな、親が子供の教育もまともにできない、不甲斐ない親で、ごめんな」と一緒に泣きました。

 

そのあとは私は「二、三年働いて、貯めたお金で高校に行くか、そうでなければ夜間高校へでもいくか、どちらかにしよう」と、気楽な気持ちでいました。

■自分の力で高校へ行けるかも知れない

ところがある日、家に帰ってくると、お客様がきていました。父が「ここへきて座りなさい」と言ったので、お客様のところへ行って座りました。そうするとその方が話してくれたことが、私には生まれて初めて聞く新しいことで、ちょっとびっくりしました。

 

「日本には在日朝鮮人と呼ばれる人たちが60万もいて、朝鮮総連という組織があり、これは北朝鮮を支持し、韓国を支持する民団という組織もある。自分は朝鮮総連という組織から来た人間である」とお客様がおっしゃいました。

 

そして「北朝鮮の首相は金日成とおっしゃる方なのだけれども、その金日成首相から去年の秋に、在日朝鮮人の青少年と学生のために、奨学金と教育援助費を送ってきた」と言いました。

 

そして「東京には朝鮮大学というのが一つあり、日本全国には九つの朝鮮高校があって、朝鮮大学にはすでに金日成の名前をつけた「金日成奨学金」というのが設けられた。そして各高校には一年に一人ないし二人、特待生という制度を設けて、授業料を払わないで通える生徒を選ぶんだ。だから、朝鮮学校の入学試験を受けにきなさい。成績によってはその特待生になれるかも知れませんよ」と言われました。

 

その「自分の力で高校へ行けるかも知れない」という言葉に、私はまず、引き込まれたわけです。

■日本の奨学金を受けられなかった原因は「本籍地」

その前に、私が通っていた日本の中学校の校長先生は私に聞きもしないで、日本の奨学金の試験を受けに行けるように手続きをしてくださっていました。そして私に「川崎、次の日曜日にどこそこの中学校に行って試験を受けてきなさい」とおっしゃいました。

 

今の日本なら大丈夫です。でもその時はまだ時期尚早だったわけです。私が試験を受けに行った学校には奨学金を受ける為にたくさんの学生たちがきていました。教室に入って答案用紙を受け取って開いてみたら、一番最初に書き込むのが本籍地でした。

 

あのころはまだ韓国と北朝鮮の呼び方を変えていませんでしたので「朝鮮慶尚南道昌原郡」では、通りませんよね。でも書き込みはしました。そして試験も全科目受けました。一科目受けて休み時間に外に出るとみんな自分の受けた試験のことを色々と言います。それで推測すると、当然私は上位に入れるなとは思っていました。でも期待はかけていませんでした。そしてそれは私の予想通り、受かることはできませんでした。

■「人のお金で勉強はしたくありません」

また父の親友にとても経済力のある方がいらっしゃいまして、私が大学を卒業するまで責任を取るので協力させて欲しい、という申し出がありました。それを父に聞かれて「私は人のお金で勉強はしたくありません」とお断りしました。父も「俺もそう思う」と言ってくれました。

 

そういう状況の時に朝鮮総連の方が「試験を受けにきなさい」と言ったわけです。だから自分の実力で、もしかしたら高校へ行けるかも知れないという、そこに私がつられたわけです。

■特待生として朝鮮高校へ

そして試験を受けに行きました。2月だったと思います。父と一緒に行きました。山を切り開いて建てた二階建ての新しい校舎でした。私たちは場所を知らなかったので、遅れて行きまして、一時間目の試験が半分以上過ぎた頃に入って行きました。そして試験を受けたのですが、それは当然、通りました。

 

そして私は特待生として高校へ通うことになりました。私がその高校へ入った時、先輩に一人、特待生の待遇を受けていらっしゃる方がいました。そのあとは私が二番目でした。

 

今日はここまでにしたいと思います。