(YouTube「北朝鮮の極端的恐怖」2021年7月4日より)
皆様、こんばんは。「川崎栄子の人生を振り返り」の5回目をお送りしたいと思います。
私が父に「近隣の、在日コリアンの方々に字を教えてあげたい。」と申し出ましたよね。父は 大喜びしてその準備をみんなしてくれました。そして近くに住んでいらっしゃるコ リアンの方々の家を訪ねて「私の家でこういう事をやりますので、来てください。」という話をして回りました。
私も学校の帰りに寄ってコリアンの方達のご家庭を訪問して、「私が韓国語教室を始めたいと思いますので、来てください。」という話をして回りました。
でも皆さま、少しおかしいと思われませんか?「高校一年生の女の子が、どうやって学校の先 生のようなことをやれるんだ?」と思いになりますよね。でも、ご安心ください。私には、少 し経験があったのです。
■中3で先生の代理を経験
それは、中学三年生の時のことでした。昔は今のように進学塾というのがありませんでした。社会には英語教室、そろばん教室、そしてお茶とかお花とか裁縫とかを習うための教室はありましたが、全科目を網羅した、そういうところはありませんでした。だから進学生のための準備は、学校が全責任を負っていました。
中学三年になりますと学校では、進学生と就職生を、就職する学生さんを分けました。そして 放課後、進学生だけを集めた補習授業をやりました。放課後、二時間くらいずつだったと思います。各科目の担当の先生方が行なっていらっしゃいました。
その社会科の科目は、歴史、地理、政治経済、と三人の先生が担当していらっしゃいました。その三人を束ねていらっしゃったのは学年主任の先生だったのですが、その先生が私に、「川崎、社会科の 科目は、お前が担当しろ。」とおっしゃいました。びっくりしましたら、先生が、「お前は出 来るから、やってくれ。俺には、それ程の時間がないんだ」とおっしゃって押し付けられま した。
そして、私はその時から高校入試の直前まで一年間、社会科の補習授業を担当することになり ました。でもあまりクレームとかは、無かったみたいです。学生さん達からも、父兄の方々からも、クレームが無かったから最後まで続けられたんでしょうね。
でも一度失敗をやらかしたことは、記憶に残っています。私が地理の時間に、うっかり「郡 山」を「ぐんざん」と読んでしまいました。教室中から「ワハハ!」と笑い声が起こりました。「猿も木から落ちるんだ!」と言われました。私は、本当に真っ赤になってどうして良いか分からない、そういう状況になったことを覚えています。
■同窓生のコリアンも、お嬢さんのコリアンも集まってきた
そういう風に私には、少し経験があったわけです。それを頼りにしたわけではありませんが、 韓国語教室は出発をしました。二十人くらい来てくださいましたかね。中卒くらいの年齢から お年寄りの方々も来てくださいました。もちろん、その中には私の同窓生、あの私が高校へ 行っていることを羨ましがった同窓生も含まれていましたし、他の同窓生達も来てくれまし た。また、その頃までは、夜の外出はもってのほかだったお嬢さま方も来てくださいました。
それは、在日コリン達の手紙を書いてあげたり、韓国からきた手紙を読んであげたりした私の両親のことがあったわけですよね。だから、「川崎の家でやるなら良いんじゃないか。」という、そういう理解のもとに、若いお嬢さん達も来てくださいました。
そして、本当に学校で一字を習ったら、夜一字を教え、学校で歌を一曲を習ったら、その歌を夜になって在日コリアンの方々に教えてあげる。そういう形で、一日一日と時間は過ぎていきました。
そして、私が学校から一度、家に帰らないで、直接教室へ行きました。
■他の集落の方が自分の家を提供し、食事も集落で準備してくれた
言い忘れましたね。私の 家で三ヶ月くらいやっていたのですが、私の家は少し都心から離れておりましたので、皆さま 通うのにちょっと不便がありまして、他の集落の方が自分の家を提供してくださるというお話 しがありまして、教室の場所をそちらに移したわけです。
だから私は学校の帰りに家に帰らないで、直接その教室へ行って授業をしておりました。そう するとその集落の方達が授業の始まる前に、私の夕食を準備していてくださいました。私は、 「そういう必要はありません。」と断りしましたが、「それくらいはやらせてくれ。」と仰っ て、毎日先に夕食をいただいてから教室を始めるという状況になっておりました。
■母が「あんたすごいね、護衛つきやん」
そして、歌など歌った日には少し時間が遅くなりまして、11時くらいになりますよね。そうすると私が家へ帰るには、ちょっとさびれた所を通らなければならない。そういう所があったん ですよね。その時は、私の同窓生が、他の同窓生と二人で必ず家まで送り届けてくれました。
私の母が、「栄子、あんたすごいね。護衛つきやん。」と冷やかす程、みなさん本当に熱心に協力をしてくれました。そのお陰で、私が北朝鮮へ出発する前の日まで教室を続けることができました。
■評判になった韓国語教室
でも、私はそれを外部には一切話をしませんでした。私が北朝鮮へ出発する間近になった頃でしょうかね。数学の先生が、「川崎、君、朝鮮語教室をやってるみたいだな。」とおっしゃ いました。「はい、そうです。」と言いましたら、「早く言ってくれれば良かったじゃないか。 協力することも、たくさんあっただろうに。」と仰ってくださいました。とてもありがたかっ たのですが、でも私はあまり外部にそういう話をするつもりはありませんでした。
その後、校長先生からもそのことを聞かれました。私は、「はい、そうです。」とだけお答え しました。校長先生も詳しいことを気にならないで、2、3回こっくりこっくり頷くだけにしてくださいました。
■「姉ちゃん、母さんのことも考えろよ」
さっき申しましたように、北朝鮮へ出発する前の日の夜、11時まで最後の授業を行なってお
りましたら、弟が来ました。私の弟が、「姉ちゃん、あんまりやりすぎじゃないか?母さんの
ことも考えろよ。」と言いました。
本当にその時は、申し訳ないと思いました。自分勝手だと思いました。自分がやっていたこと を区切りをつけたいというその想いだけで、私を出発させなければならない親のことは、あま り念頭に無かったわけです。とてもわがままな娘だったわけですよね。
そんな状況の韓国語教 室を最後の日まで、私はしっかりやり遂げたと思っております。
今日はこれくらいにさせていただきます。
ご視聴、ありがとうございました。
またよろしくお 願いいたします。
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