帰国船での経験(川崎栄子代表、2021年12月14日、新潟港中央ふ頭にて)

お祭り騒ぎで新潟港を出港

正にこの港から、1959年の今日、12月14日、第一次北送船が出港しました。

 

その時は本当にこの港を人の波がぎっしり埋め尽くしました。ブラスバンドが鳴り、テープが飛び交い、人の声が飛び交い、本当にこんなお祭り騒ぎは他にないというくらいでした。

 

私は直接新潟まで来れませんでしたから、テレビを通して見ておりましたが、ものすごい騒ぎでした。そして各新聞メディアも「資本主義から社会主義への民族の大移動だ」という朝鮮総連の宣伝をそのまま伝えておりましたので、「本当に祝うべきことだ」として送り出されたわけです。

 

ここから出航したら海で二泊します。三日目の朝、清津(チョンジン)に上陸しますが、その二泊三日が人の人生を地獄の底へと叩き落とす航路であったことは、誰も知りませんでした。

 

地獄へ向かう航路だとは誰も思わなかった

私は2008年くらいから、坂中英徳氏の北朝鮮救援機構で始まった「新潟埠頭デー」の追悼行事に毎年参加しておりましたので、その頃から毎年ここ来ておりましたが、本当にこの埠頭に来ると、涙が止まりません。

 

10万人近い人々を、地獄の底に叩き込んだこの事業はここで始まりました。それに私自身が渡っていきましたので、私の周囲の人たちが、そのために、どれだけたくさんの人たちの命が失われたか。それにどれだけ過酷な生活を強いられたか。

 

自分自身もそうですが、他の人の姿も目の当たりに見ておりましたので、本当にこの埠頭に来て涙を流さずにいることはできません。

 

まず港に着いた人たちは、着いた瞬間に分かりました。「騙された」と。

 

公海に出て徐々に感じた異変

まず船に乗っていた時のことですが、私が一番最初に感じた不思議なことがあります。船が出航して2時間以上経ってから、日本の警備艇が近づいてきました。船に近づいてきてメガホンで「ここまでが日本の領海です。だからここまでは私たちがお守りしてきました。ここからは公海に入りますので、私たちはここでお別れを致します。皆様、行って、お幸せな生活をお送りください」と言って、お互いにさよならをしました。

 

そして公海に入ったのですが、公海に入ってまた3時間くらいした時だと思うのですが、その時、どういう指示が出されたか。「日本から持ち込んだ食べ物を全部海に捨てなさい」。そういう指示が出されました。

 

理解ができなくて、「食べ物をなんで捨てるの?」。私は一人で行きましたから、そんな私でも親が買ってくれたもの、お友達が買ってくれたものから、ご近所さんが買ってくれたものまで、結構食べ物をたくさん持ってたわけです。家族で行った人たち、子どもたちとお年寄りのいる人たちは、本当に風呂敷にいっぱい持っていたわけです。

 

その食べ物を一切海に捨てろと言われて、「どうして海に捨てるの?」と、私はすぐに質問しますから、「どうして捨てるの?」って言ったらどういう答えが返ってきたか。

 

「北朝鮮は日本の植民地だった国だから、北朝鮮の人たちが日本の食べ物を見たら喜ばない。だから捨てろ」と言うのです。

 

だから私はあまりにもおかしいと思って。「だって私は、私自身がメイドインジャパンだよ。日本で生まれたんだよ。そうしたら私なんか喜ばなんじゃないの?」

 

それは率直な質問だったわけです。そうしたら、「いや、人はそうじゃない」と言うのです。矛盾しています。

 

でも見たら、皆さんその指示に従って食べ物を海に捨てるんですよね。それで強情っぱりの私も捨てないわけにはいかなくなって、最後には捨てたのですが、その二隻の船の周りには捨てた食べ物がプカプカ浮いて、世にも摩訶不思議な光景が繰り広げられました。

 

それでその時は海に捨てて済みましたが、その後になって大変なことになったのです。小さいお子様達が船に乗って、食べ物が食べられなくなりました。なぜなら船のペンキの匂いがひどく、ソ連からチャーターしましたから、塗装をやり直したのでしょう。だからペンキの匂いがすごくひどかったし、それに食べ物が合いませんでした。

 

ソ連のコックさんたちが作ってくれる食べ物だから、大人も合わないから食べないのですが、子どもたちはお腹が空くからピーピー泣くでしょう。

 

そうしたらおやつを持ってるからそれをあげれば良かったのに、全部捨ててしまったからあげるものがなかった。親御さんたちが大変でした。

 

それがまず帰国船に乗って第一の、一番不思議なことでした。そこから始まりました。でもそのことは皆それ以上、あまり気に留めませんでした。

 

清津港が見えて歓喜したのも束の間

私の乗った船はものすごく揺れてシケがひどくて「この船は沈んでしまうんじゃないか。北朝鮮につくんだろうか」と思うくらい、揺れが酷かったです。

 

二泊して三日目の朝、朝早く甲板に出て海を見ていました。一つの船に二人ずつ北朝鮮の代表団が乗っていました。私は小さい子でしたから、「お嬢ちゃん、来なさい」と言って、「向こうの方に黒く帯のように影が見えるでしょ。あれがこれから行くチョンジンですよ」と言うのです。

 

そうしたら、その近くでそれを聞いていた人たちが「バンザーイ」と叫び出して、みんな甲板に上がってきて、もうそれからは金日成の歌を歌い、愛国歌を歌い、万歳を叫び、旗を振り、甲板の上が大騒ぎなんですよ。本当に、歌と涙と笑いと万歳と。

 

新潟で一人一つ、旗をくれたのですが、それが鉄の芯に布の旗でした。それで残っていましたが、もしも紙の旗だったら(激しく振って)一つも残りません。そういう大騒ぎをして近づいていきました。

 

チョンジン港に入って、だんだん港が近くなってきたのですが、近くなるにつれて、歌声がだんだん小さくなって、最後には止まってしまいました。誰も歌わなくなって、静かになってしまいました。

 

どうしてか。まず、この埠頭の景色が、まったく異様だったのです。異様な景色で、まず全体が黒かった。建物も黒いし、道も黒いのです。並木の木まで黒い。

 

後で原因がわかりました。日本時代に建てられたチョンジン製鉄所というのが稼働していて、そのばい煙が、全体を黒くしていたのが原因でした。しかし、初めて見る人の目には異様に映りました。「なんでこれ、みんな黒いの?」ということで。

 

 

「誰も降りてくるな!その船でそのまま日本へ帰れ!」

ところで私が船に乗った時、上級生の男子学生が二人いらっしゃいました。その方たちは純粋に北朝鮮で大学に行くために行かれたのです。それでチビの私が乗ったからびっくりして「お前はなんでこんな船に乗った?」「私も北朝鮮に行く」と。その後、私はそのお兄ちゃんたちにチョロチョロ着いて歩いていました。面倒をよく見てくれましたので。

 

それで船が岸壁につく頃は、私達三人は舳先のところに立っていました。そうしたら遠くから見ても、一番舳先の船が着くところに、一人の男性が立って、何かを一生懸命に怒鳴っていました。でも遠いから聞こえませんでした。岸壁に船がついたら、風が下から上がります。その時に聞こえてきました。

 

「おーい、そこに乗った三人!誰も降りてくるな!その船でそのまま日本へ帰れ!」

 

日本語でめちゃくちゃ怒鳴っていたのです。

 

誰だろうとよく見たら、私が一緒に行ったお兄ちゃんたちと同じクラスだった、先に帰った人だったのです。それでお兄ちゃんたちがびっくりして「あいつ、気違いになったんじゃないか」と言って。

 

そうこうしているうちに、私達は降りなければならなくなり、その人がどうなったか分からなくなりました。そういう事件がありました。

 

私が乗った船でも、「降りない」と駄々をこねた人が一人いました。その人はそのままいなくなってしまいましたが、それに対してその時、私たちはあまり、注意を向けるほどではありませんでした。連れて行かれたのは知っていましたが。

 

北へ渡った人たちのその後

そしてその頃は一週間に一回、(新潟から)船が出ていました。第一次船は900何人。第二次からは千人を超えたと思います。私が乗っていた船も千人を超えました。千人以上がいっぺんに行きましたから、その人達の入国手続きや配置など、すごい作業量になります。それで一箇所では処理ができず、チョンジンに招待所というのがあり、咸興(ハムフン)というところにも招待所があり、私たちは咸興行きでした。

 

そのようにして入港したとたんに騙されたということが分かって、大変なことになったのですが、この船に乗っていた人たちが、まず、驚いて、ショックで精神に異常をきたした人…。食生活が完全に変わってしまい、胃腸病になって、ほとんどの人が肝臓病になりました。色々な病気でなくなった方…。それから、率直な人、言葉を我慢しない人は、一言の言葉の間違いで、逮捕されて姿を消した人たち…。本当にたくさんいました。

 

そういう風にしてこの船に乗っていた93340人のうち、今、生き残っている人は、ほんの数える程しかいないと思います。殆どの人が人生を終えていると思います。

 

日本人妻など、日本国籍保有者の苦労

その中で一番ひどい目に遭ったのは、保衛部に逮捕されて殺された人たち、その家族で強制収容所に行った人たちです。その中でも特にひどい目に遭っているのは、日本人妻家族と日本人夫家族です。

 

日本から行って強制収容所に入れられた人たちの半分以上が日本人妻たち、日本人夫たちだったわけです。

 

金日成は「日本人もいらっしゃい。大丈夫です。三年後からは里帰りできます」という宣伝をしましたが、実際はスパイとして最初から目をつけられていました。私は周りでいじめ殺された人を何人も見ています。

 

私は日本に帰ってきて、最初、坂中事務所でお世話になっている時、坂中さんのお陰で、国会議員の先生たちの前でスピーチをしたことがあるのですが、その時にお願いしました。

 

「もちろん、帰国船に乗って行った93340人、みんな大事な人達です。でも、日本政府としては一番最初に、日本人妻家族、日本人夫家族、1800人の日本人妻と6800人の日本国籍保有者の救出を先に実施してください」。

 

このお話を2008年か2009年にはもうしております。でも今日までまだ、日本政府は手を付けていません。

 

悔しさを百万分の一でも何とかしてあげられるように

私は(2021年)10月14日に北朝鮮の金正恩相手の裁判は一応、一段落しましたので、二番目の段階として、日本政府との裁判に入ります。これが私がこの港から船に乗っていって、命を落とされた方々に対して、私がその人たちの悔しさを百万分の一でも何とかしてあげられるように努力します、ということを、この人達の霊の前に誓いたいと思います。