コラー、ここをどこだと思ってるんだ!(川崎栄子)

(YouTube「北朝鮮の極端的恐怖」2021年7月30日より)

皆様こんにちは。

 

川崎栄子の人生振り返り、8回目をお送りしたいと思います。

■ 当然のように日本語で報告すると…。

高校に入って1学期も終わりに近づいた頃、生徒会の総会というのが開かれました。前にもお話ししましたように、私は入学してすぐに役員に選ばれていましたので、報告をする必要が生じました。

 

私は生徒会の財政を任されておりましたので、その報告をする順番になって、立ち上がって話を始めました。

 

しかし、まだ私が会話を朝鮮語でするほどの水準ではありませんよね。だから当然のことのように、日本語で報告を始めました。話をしだして2〜3分たった頃「コラー、ここどこだと思ってんねん!ここは朝鮮学校やぞ!朝鮮語で喋れ!」という声が飛んできました。

 

私はその場にヘタヘタと座り込んでしまいました。その怒鳴り声は当然の要求だったわけです。でも私はその当然の要求に応えることができない状態だったわけですよね。

■ 苦い経験を糧に朝鮮語を体に叩き込んだ

だから、座り込んでしまった後は、報告をすることができませんでした。でもこの時受けたショックが、私が必死になって朝鮮語を自分の体に叩き込む、重要な契機になったと、そういう風に思っています。

 

そしてその1年が終わって新しい学年に入る前の休みに入る頃には、私はずっと朝鮮学校を上がってきた学生さんたちよりも、うんと朝鮮語ができる学生になっていました。

 

私の学校の校長先生は京都大学を卒業された北朝鮮出身の先生でしたが、その先生が私に「君は語学の天才だね」と言ってくださるほど早い速度で、朝鮮語を身につけて行きました。

■ 「夏休みの間、そのお金を私に預けなさい」

でも私はその夏休みに入る頃、副校長先生と衝突をすることになりました。明日くらいで夏休みに入るという日に、副校長先生に呼び止められました。そして、「君、生徒会のお金は君が預かっているんだよね」と言われました。「はい、そうです」と言いますと「夏休みの間、そのお金を私に預けなさい」と言われました。

 

私はどうしてだか、その時ピンとくるものがあったんですよね。前にお話ししたように朝鮮学校の先生方はその頃はまだボランティア同然でお給料が毎月もらえるような、そういう状況ではありませんでしたから、経済的にとても苦しい思いをしていらっしゃる先生方が多かったわけですね。

■ 副校長と押し問答

だから私は「あぁ、これは、このお金を渡したら戻ってこない」と直感的に思ったわけです。そして「このお金は生徒会のお金を預かっているものですから、先生に預ける必要はありません」と言いました。そうしたら副校長先生が「預けなさい。夏休みが終わったら君に戻すから預けなさい」とちょっと強引な態度でたたみかけて来られました。

 

でも私は一歩も引きませんでした。「預けません。これは学生の生徒会のお金ですから、責任は私が持っています。もし私がこれに何かの間違いを犯すとしたら、私が責任を持ちますので、先生にお預けする理由がありません」。強硬な態度で私も対抗したというのはおかしいですが、副校長先生としばらくやり取りをしました。

 

副校長先生は「どうしてもそのお金を自分に預けなさい」という立場でしたし、私は絶対に「そこまで学校の先生から生徒会のことについて干渉される覚えはありません」。そういう立場を貫き通しました。そしてついに私はそのお金を渡しませんでした。

■ 反省はしたが、やはり判断は正しかった

その後、副校長先生と気まずい気持ちでお別れした後、とても反省しました。本当は渡した方が良かったんじゃないかな。もしも副校長先生がそのお金が必要でどこかに必ず使わないとダメだったのかもしれないのに。渡した方が良かったんじゃないかな。と、自分で反省をしました。

 

でもやっぱり自分自身の中で「いや、渡さないで正解だった。これは生徒会の役員として当然のことだった」と自分で自分に言い聞かせましたが、その時のなんだか先生に悪いことをしたような気持ちが、とてもすっきりしない気持ちを、今でも鮮明に覚えている原因なんでしょうね。

 

私は今でもその時の背の小さい副校長先生が、私を必死に説き伏せてそのお金を自分に渡させようとしていらっしゃった姿がまざまざと浮かんで参ります。でも反省したりはしましたが、私がその時に、副校長先生に生徒会のお金をやらないで当然だったという、その見解は今も変わっておりません。

 

もうその先生はお亡くなりになって数十年になられると思いますが、本当に印象に残っている私の朝鮮学校生活の1学期の終わりの様子でした。

 

今日はこれぐらいにさせていただきます。ご視聴ありがとうございました。