(YouTube「北朝鮮の極端的恐怖」2021年6月30日より)
みなさま、こんばんは。川崎栄子です。
私の人生振り返り、4度目をお届けしたいと思います。
■ 楽しい雰囲気で始まった朝鮮高校
学校へ入学しまして、新しい朝鮮学校での学生生活が始まりました。それはけっこう、楽しい雰囲気だったというか、同じコリアンの子供達が一堂に集まって生活することによって生まれる、和気藹々とした雰囲気といいますか、そのような雰囲気はちょっと新しいものでした。
私は小中学校に通いながら、そんなに酷いいじめには遭っていないと申しましたが、結局は肩を張っていたんでしょうね。だからそのつっぱった気持ちがなくなって、同じコリアンの子供達だけが一堂に集まっているということで、心に楽になった状況でした。楽しい雰囲気で学校生活を始めました。
■ 先生はみんな「北朝鮮の発展ぶり」を話す
驚いたことは、各科目の先生方が、授業に入っていらっしゃると、すべての先生方がまずは北朝鮮の発展ぶりをお話しされ、また北朝鮮がどれだけ素晴らしい国であるかということを、色々とお話しされることでした。
そういうところから、自分の親のルーツである朝鮮半島について、何も知識のなかった私としては、受け入れるより他にありませんでした。あまり疑問も持ちませんでした。
部活動なんかも、楽しくやっていました。授業が終わった後は、ホームルームがありますが、そこで色々なことを話し、その後、自由時間になると運動場で色々なことをしました。ソフトボールもしたし、バレーボールもしたし、器械体操のようなマット運動もやりましたし、何でもできる雰囲気でした。
■ 抱き始めた違和感
でもそれが2〜3ヶ月、そういう雰囲気の中で生活しながら、だんだんと私は違和感を覚えるようになりました。どうしてかと言いますと、その朝鮮学校の学生たちはほとんどが朝鮮総連傘下の子供達です。特に朝鮮総連の幹部たちのお子様たち。それから在日の中でも少しゆとりのある、授業料を払える人たちです。
私のように朝鮮総連とは関係のない、父も母も関係のない、そういう無縁の学生が、それも特待生として通っているということは、私自身がだんだんと自分で納得ができなくなってきました。私なんかは、そんな北朝鮮から来たお金で勉強する対象ではないということに気がついたわけです。
■ 「学校をやめます」
そして色々と考えましたが、ついに3ヶ月くらいたったころ、校長先生をお訪ねしました。そして校長先生に「私は学校をやめたいと思います」というお話をしました。校長先生がびっくりされまして「どうしてなんだ」とおっしゃいました。だから私は今の話をしました。「私はここで奨学金をいただいて、教科書までみんなタダで支給されて勉強するような対象ではないと思います。だからやめさせてください」というお話をしました。
それをお聞きになた校長先生が「あなたはまだよく知らないし、考え違いをしている。金日成首相は、あなたの親が北朝鮮のために何か大きな功績を残したとか、何かやったことがあるとか、寄付金をたくさん出したとか、そういうことであなたに特待生として待遇しているのではない。あなたが学校を卒業して、将来、祖国のために朝鮮総連のために、働いてくれることを望んで、今、勉強してもらっている。だから何も心に負担を感じることはありません。自信を持って一生懸命に勉強してください」と、すごく熱心に説得をされました。
私はその校長先生の説得に100%納得した訳ではなかったのですが、それ以上強引にやめさせてくださいという話を推し進めることができませんでした。そしてまた元のように学校生活を送りました。
■ 今も脳裏に残る同窓生の姿
そして学校へ入って4〜5ヶ月たったころ、下校の途中で「川崎!」と呼び止められました。振り向いてみると、中学生の頃のコリアンの同窓生で、男子学生でした。私の通っていた小中学校ではコリアンの子供達の数はあまり多くなくて、1クラスにコリアンが二人いるというクラスはありませんでした。だからみんな一人ずつ分かれて入っていて、別のクラスだったのですが、コリアンだということはお互いに知っておりました。私の家から歩いて20分くらいのところに小さなコリアン部落があったと思うのですが、そこから通っていた同窓生でした。
その人が呼び止めて、「お前はいいな」と言いました。
「どうして?」「お前は勉強ができるから、タダで高校に行けているじゃないか。おれは高校に行きたくても学費がないから行けないんだ。」そう言いました。
それには本当に私は言葉に詰まりました。この人になんと返事をしていいのだろうと黙っていると、「あはは」と笑いながら、「いいんだ。別にお前が責任を感じる必要はない。おれはただ、お前が一生懸命に勉強してくれることを望んでいる。それがちょっと羨ましかっただけだ」と言って、自転車をこいで遠ざかっていきました。その時の同窓生の姿が今もはっきりと脳裏に残っています。
■ 父が涙を流さんばかりに喜んだこと
その後、私はずっと心の底に残ったまま、学校に通っていましたが、その後1ヶ月くらいか、それ以上経った時に、パッと思いつくことがありました。「あ、できることがある」と気がつきました。そして家に帰って、父に話をしました。
「お父さん、私が今、こうやって特待生として高校へ通わせてもらっていますが、私にもできることがありそうです。私が昼間、学校へ行って一字を習ったら、夜に帰ってきて、コリアンの人たちに一字を教えてあげ、歌を一つ習ったら、その歌を教えてあげ、そういうことを、私の家でできないでしょうか?」と言いました。
そうしたら父が涙を流さんばかりに喜んでくれました。「あぁ、本当か、それは。本当にやってくれるのか。俺は一番日本に来て辛いことが、在日コリアンのほとんどが、字を読めないことなんだ。日本の人たちは道で新聞を拾っても、こじきでもその新聞を読むことができる。でもコリアンは相当な生活をしている人でも、字を読むことができない人がほとんどなんだ。それをお前が解決してくれるなら、これ以上、嬉しいことはない。」
父はそう言って、すぐに板を買ってきて、自分でかんながけをして、大きな黒板を作ってくれました。そしてチョークを買い、黒板ふきを買ってくれました。
今日はここまでとさせていただきます。
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