東京高等裁判所、口頭弁論(川崎栄子代表、2023年7月7日)

 皆様こんにちわ。

 

私は原告団の1人、川崎 栄子です。

60数年前、日本は在日コリアンの北送問題で国中が湧きかえっていました。

 

朝鮮総連は毎日どこかで日朝合同大会を開き、各コリアンの家を訪れては「北朝鮮は素晴らしい地上の楽園」説を吹聴し、日本のすべてのマスコミもこれに賛同して大々的に北送賛成報道を展開していました。

 

つまり在日コリアン達が浮き足だって北送船に乗らざるを得ないようなムンムンとした熱気に包まれて北朝鮮とは縁もゆかりもない現在の韓国にルーツを持つ人達が93,340人も北朝鮮へ送り込まれましたし、その中には1,800人の日本人妻と6,800人に及ぶ日本国籍保有者達もいました。

 

私はよく「それにしても17歳の高校生の女の子がどうして一人で北朝鮮へ行ったの?」という質問をされます。 

 

私は小学校、中学校は日本の学校を卒業しました。だから朝鮮語も出来なければ、自分の親のルーツである韓半島が2つに分かれていることさえも知らない普通の日本の子と変わりありませんでした。

 

一つだけ、父が子供達に暗唱させていた本籍地は「キョンサンナムド チャンウォングン チャンウォンミョン サファリ」だという事は知っていて自分はいわゆる「朝鮮」なんだという事を知っているくらいのものでした。

 

そんな私がひょんなことから朝鮮総連系の高校へ行く事になり、急に「北朝鮮、地上の楽園説」を毎日叩き込まれていきました。 

 

在日コリアンの北送事業が本格化したのは私が高校2年生の頃だったと思います。毎日朝から授業に入ってこられる各科目の先生方はまず「北朝鮮地上の楽園説と北送事業の素晴らしさ」を一丁ぶってから授業に入りましたし、授業が終わった後は何人かずつグループを組んで在日コリアンの各家庭を訪問して「北朝鮮地上の楽園説」と「一緒に北朝鮮へ行って幸せな社会主義建設に参加しましょう。そしてキム イルソンによって祖国が統一された暁には故郷へ錦の旗を立てて堂々と帰郷しましょう」と宣伝マンに早変わりしました。

 

でも私は北送事業自体を反対していましたし、「北朝鮮へは行かないよ」という意思表示をはっきりしていましたのでその放課後の活動には参加しませんでした。

 

私が北朝鮮へ行って埠頭に着いた途端に騙されたと分かった時、1番最初に思った事は「良かった。私が勧めて北朝鮮へ来た人は1人もいない」という事でした。

 

じゃ、そんな私がどうして急に北朝鮮へ行ったのか?

 

それは血気旺盛な少女の好奇心とでもいいましょうか。

 

私は先生方が時間ごとに力説される地上の楽園説「税金がないよ、学校はタダだよ、病院もタダだし、住みたいところで住めるし働きたい所で働けるよ等々」の中で「税金のない国」というのがどうしても納得できませんでした。「国というのは国民から税金を徴収してそのお金で国を治めていく筈なのに税金を取らないでどうして国を納めるの?」そして二つ目の疑問は「朝鮮戦争が終わって7年しか経っていないのに北朝鮮はどうやって「地上の楽園」を建設したのだろう?」という事でした。

 

この2つの疑問を自分の目で見て確かめる為に私は親にも相談しないで先に市役所の窓口へ行って北送の手続きをしてから親には事後報告をしました。

 

北朝鮮に着いて直ぐに2つの疑問は解決しました。

 

まず「税金のない国」というのは税金がないんじゃなくて国民には配給を取るくらいのほんの少しのお金をお給料として与えてその後は国民の全収入を独裁者が勝手に使うボッタクリの国でした。

 

次に「地上の楽園」これはとんでもない嘘八百で本当は一切の自由も人権もない「地上の地獄」でした。

 

気がついた時には時すでに遅し。逃げ出すことも反抗する事も出来ない状況になっていました。

 

私の話はここからが本番です。

 

こうして1人で海を渡った私はまず一年後に北朝鮮へ来るといった家族の北送を阻止しました。そして私が脱北に成功して日本へ帰って来るまで44年という歳月を自分の親兄弟と離散家族として生きなければなりませんでした。

 

ほとんどの北送者達は親兄弟、親戚など縁故のある人たち同士で行っていましたが私のように天涯孤独な人間はあまりいませんでした。

最初は自殺しようと思いましたが私より先に自殺した人の扱われようを見た時自殺は出ないと思いました。北朝鮮では自殺イコール反逆者として処理されます。自殺者はそれが自殺だと認められた時点で家族はその死体に触れる事さえできません。警察がむしろを1枚持って来て死体をグルグルっと巻いて担ぎ出して仕舞えばその死体がどこへどう処理されたかも知ることができません。

 

そして葬式はもちろん、人が亡くなった後行われるどのような事も一切することは許されません。すなわちその人は家族では無かった事にされてしまいます。そして数ヶ月後にはその一家はどこかの山奥へ追放されてしまいます。

 

日記も書けません。

日本に手紙を書いても100%チェックされるのでそれを通る様にしか書けません。

 

じゃどうして生きていくか?「見猿、聞か猿、言わ猿」私はこの3猿を押し通す事にしました。

これがどれ程大変な事か皆様には想像がお付きになるでしょうか?

私は自分自身が缶詰の中に押し込められたと思っていました。

 

「脱出を試み無かったかですか?」ですって?

 

もちろん考えました。でも他の大学にいた友達だつた男の子達が3人で脱北を試みて失敗して処分されるのを見て到底私には無理だと悟りました。

 

44年という歳月を経てやっと脱北することが出来ました。

脱北というのは命を賭ける覚悟がないと出来ません。

 

日本から北送船に乗った93,340人のうち生きて自由の世界に帰ってきたのは日本、韓国、その他 みんな合わせても100人に満たないと思います。途中で犠牲になった人も沢山います。脱北とはそれほど過酷なのです。

 

私は2,003年に脱北して2,004年に日本へ辿り着きましたがそれによって今度は自分の子供達、孫達と離散家族になってしまいました。

もう、20年が過ぎました。63年の間私は離散家族という重荷ずっとを背負って生きています。

 

21世紀の現在世界中の人達が自由に行き来し、いつでも電話でお互いに顔を観ながらおしゃべりをする事が出来ます。

でも私には彼らの生死すら知ることができません。それができないのは北朝鮮ただ一つなのです。

 

この20年の間に私の唯一の宝物であった孫を北朝鮮軍の上官に殺されてしまいました。それは私が原因でした。孫は大きくなって軍隊に入ったのですがその上官が、祖母が脱北して日本にいることを知って、彼に軍生活をさせるのではなく繰り返し家へ帰らせて「カラーテレビを持って来い」とか「冷蔵庫を持ってこい」とか、日本の家電製品や金品を要求し続けたそうです。家へ帰ってもそんなものがない事を知っている彼は毎回家には帰らないで友人達と何日かを過ごした後、手ぶらで軍に帰るということを繰り返していたそうです。

 

そして彼から何も取れないと判断した上官が怒り狂って軍の建物の6階に彼を呼び出して殴り殺して建物の下に蹴り落としてしまったそうです。

 

私は脱北する時、彼を連れて来ようとしましたが彼の両親である私の息子と嫁がうんと言いませんでした。彼らにはその子1人しか子供がいませんでしたから私も無理強いは出来ませんでした。

 

私達はいつまでこの理不尽を赦さなければならないのでしょうか?

北朝鮮を一日も早く崩壊させないとこの理不尽は終わりません。

その大きな手段の一つがこの裁判だと私は思っています。

 

裁判長様、この高等裁判所でこの裁判を必ず勝訴にして下さい。

そして私達が次の段階であり、北送事業の実行犯である朝鮮総連を裁きの場に引きずり出せる様にして下さい。

 

もう少しお話をさせていただきます。 

 

この裁判がスピードアップしなければならない厳しい現実が私達の前に立ちはだかっています。

それは私達原告団の年齢です。

 

2018年8月20日、東京地裁に書類を提出した時、5人の原告団はみんな元気に並んで東京地裁の前を行進しました。

5年の年月を経たいま現在、裁判所で直接口頭弁論をすることが出来たのは2人しか居ません。

コ ジョンミさんはお亡くなりになりましたし、榊原さんは北朝鮮での怪我の後遺症でとても重症だそうです。そして一番年下の石川さんは病院で動画を撮って口頭弁論には参加してくれましたが皆様がご覧になりました様に病気はとても重い状態です。

 

私達が裁きの場に立たさなければならない対象はまだあります。

北朝鮮のキム イルソンの発案で始まった北送事業ですから最初に北朝鮮のキム ジョンウンを審判台に立たせましたが北送事業の実行犯ば朝鮮総連なのです。

 

在日コリアンの人達に北朝鮮地上の楽園説」を吹聴して回ったのは朝鮮総連であり、在日コリアンを動かして直接船に乗せたのは朝鮮総連ですから北送事業の実行犯は朝鮮総連なのです。

私達は生きて朝鮮総連が犯した罪を必ず償わせなければなりません。

下手をすると私達原告団の命が足りなくて罪を暴けないという事になりかねません。

そんなことは絶対に有ってはなりませんからこの裁判を最大限にスピードアップして下さい。

 

よろしくお願い致します。

           原告団 川崎 栄子