朝鮮学校の教師陣はとびきりでした(川崎栄子)

 

(YouTube「北朝鮮の極端的恐怖」2021年7月22日より)

 

皆様こんばんは。川崎 栄子の人生振り返り、7回目をお送りしたいと思います。

■ 朝鮮学校の教師陣はとても優秀だった

この前は京都の朝鮮学校の学生の構成についてお話しさせていただきましたが、その学生たちが授業を受ける、先生方について今日はお話ししたいと思います。

 

学生たちは正直言って、そんなに優秀な学生の集まりではありませんでした。失礼かもしれませんが、私立学校の中でもちょっと低い方に所属するぐらいの、そんな程度だったと思います。

 

でもその学生たちに教えてくださる先生方は素晴らしい方々が集まっていらっしゃいました。ほとんどが 国公立の卒業生でそれもその方面で有名な方たちでした。

 

まず校長先生は東京大学の卒業生だったと記憶しております。名前はチェジュナとおっしゃいました。外見も素晴らしい先生でした。割腹も良かったし、その頃、中年、学生に対してロマンスグレーという、ごま塩の髪の毛が流行っていましたが、そのロマンスグレーの本当にイケメンの、外見からしていかにも立派な校長先生でした。

 

副校長は京都大学を卒業された方でしたが、その方は背がちっちゃくてちょっと小太りで、珍しく北朝鮮出身の方でした。いつも「僕は北朝鮮出身なんだけども、北朝鮮出身の人がいなくて本当に寂しい思いをしている。だから君たち 仲良くしてね」とよくおっしゃっていました。

 

そして私が北朝鮮に行った後、私が大学に通っていたところの隣に、医科大学があったのですが、その妹さんが医科大学に職員として通っていらっしゃるというお話を聞いたことがあります。私はお会いしたことはありませんでしたが、そういう話を聞いたことがありました。

 

それから英語は京都大学の先生でした。文法の先生が京大を卒業された先生だったのですが、京都大学で「生きている字びき」と言われるほどの言語学者だった、そういう先生が教えてくださいました。

 

そして物理の先生も、京都大学の先生だったのですが、その方も 伏見かどこかに実験装置を持っていらっしゃる 研究者の先生でした。

■ 優秀な人材が朝鮮高校で教師をしていた理由

そういう風に教育陣は本当に高い水準の先生方だったのですが、どうしてそうなったかと言いますと、今はそうではありませんが、昔はまだ在日コリアンが大学を卒業しても就職をするところがありませんでした。日本の大会社とかちゃんとしたところには在日コリアンというだけで雇ってくれなかったわけです。だから人材が数少ない朝鮮学校に集まってくることになったわけですよね。生徒にとってはとても幸運なことですよね。でも、先生方はそのために大変な思いをしていらっしゃいました。

 

どうしてかと申しますと、その頃までまだ朝鮮総連は経済的に裕福な状態ではありませんでした。だから、学校の先生と言ってもお給料をちゃんともらえる状態ではありませんでした。本当にボランティアに近いような何ヶ月かに1回、お給料が出ればありがたいし、でなくても仕方がないみたいな、そんな感じでいらっしゃいましたから、経済的には大変な思いをしていらっしゃったと思います。

 

その中でも特に国語(韓国語)の先生がいらっしゃったのですが、少しその先生はお年を召していらっしゃいましたが、本当に生活が大変だったようで、お昼のお弁当も持っていらっしゃらなくて、生徒会がお昼時間に学生たちにパンと牛乳を売っていたのですが、その売り上げの中から、毎日その先生にパンを2個と牛乳1本をタダで差し上げていた記憶があります。

 

そしてその先生は私が2年生の頃だったと思いますが、韓国の大学から招かれて 韓国へ渡られました。そのことを朝鮮総連ではすごく「裏切り者」とかいろんなことを言われながら、家族のために、生活のために、韓国へお渡りになったことを記憶しています。しかし、韓国へお渡りになった後は自分の選んだ道が良かったとお思いになったと思います。

■ 教師たちの北朝鮮に対する知識は「受け売り」だった

 

そして他の先生方はみんな、今も言ったように、錚々たる先生方が教えてくださいました。ただ私は、その先生たちがどうして日本で暮らして日本の大学を卒業しているのに、北朝鮮のことをそんなに知っているんだろう?と不思議に思っていました。先生たちに対しては特別に講習とか資料の提供とかがあったのだと思いますが、今考えてみればその先生たちも「受け売り」だったわけです。あまり知らないことですので。

■ 「税金のない国」に納得ができず

私はその中で、前にも申し上げたことがありますが、「税金のない国」というのが本当に理解ができませんでした。税金がなくてどうして国を運営するんだろう?そして教育がタダだと言いました。 そして医療がタダだと言いました。どちらも金のかかる国家的事業ですよね。それをどうしてタダでできるのか。

 

税金を取って、その税金で賄うならそれは理解できるんですよね。国民から税金をたくさん取って、その見返りとして教育と医療がタダ。そういう国も北欧にはありますよね。

 

それなら辻褄が合うのですが、これは税金もないし医療もタダだし教育もタダだし、住宅もただ同然だ。そういうことに対する疑問が漠然と頭の中で巡っていましたが、私自身がそれに対する知識が全然ありませんでしたから、先生方がそうおっしゃることに対して、「それは間違っていますよ」とか「おかしいですよ」とか、そういうことは言えませんでした。ただ黙って自分の心の中で「なんかちょっと…?」と思っていたくらいでした。

■ 部活動も活発だった

そして授業は科目別に行われたのですが、部活動もなかなか学生たちは活発でした。そしてサッカー、バスケットボール、バレーボール、ソフトボール、それからテニスをやっている人もちょっといました。体操をやっている人もいました。私はこれと言って決まった部活動をやったわけではないのですが、主にソフトボールはよくやっていました。だから2年生ぐらいの時に朝鮮学校の関西大会というのがあって、大阪朝鮮学校へ行ってソフトボールの競技に出たことがあります。

 

その時に、京都朝鮮学校にいる間はそんなに自分が劣っているとは思っていなかったのに、大阪朝鮮学校のソフトボール部と対戦してみたら、そのピッチャーがすごい人で体格もいいし美人だし、繰り出してくる球がものすごい速度で、バットを当てられないぐらいにボロ負けした記憶があります。「大阪朝高ってすごいんだな」とその時に思いました。

 

そういう風に各部活動も活発にやっていましたし、また北朝鮮に対する教育の一環として、何がたくさんされたのかと言いますと、夕方になって薄暗くなってきたり運動場で焚き火を焚いて、フォークダンスとかそういう行事をたくさんやりました。

 

フォークダンスを普通に日本の学生さんたちがやっているのとは違って、北朝鮮の歌に合わせて踊る、簡単な踊りなのですが、群衆が踊れる、輪になって踊れる、そういう踊りがあって、夜、薄暗くなってきたら、みんな運動場で踊る、そういう機会がたくさんありました。

 

私は前にもお話ししましたように、韓国語教室をやっていましたから、1週間に3日は参加できませんが、学校に長くいられる日にやった時には遅くまで一緒に踊ったりしていました。

 

そして特筆すべきは私の担任の先生が体育を担当していらっしゃったのですが、その先生は同志社大学の卒業生でした。その先生がバスケット部を指導されていました。

 

担任の先生がバスケットを担当していらっしゃった関係もあったのでしょうが、男子部員が全員が私のクラスの男の子たちでした。女子部員はまた別にいましたが、うちのクラスで女子部員でバスケットをやったという記憶はありません。男子部員は全員が1クラスの学生で構成されていたのですが、私が日本にいた間にはそこまで行きませんでしたが、私が北朝鮮に行った後、3年生の時にバスケット部の部員たちが日本の高校生たちの全国大会に出て1位になったという、すごい記録があります。

 

そのうちの何人かが北朝鮮へ渡ったのですが、そのうちの1人が平壌で北朝鮮の国家チームの一員として、バスケットボールで活躍をしていました。

 

そういう風に結構、活気のある状態の学生生活が続いていました。

 

今日はここまでにさせていただきたいと思います。

 

ご視聴ありがとうございました。