朝鮮学校唯一の日本人教師

 

(YouTube北朝鮮の極端的恐怖 2021年8月30日)

皆様こんにちは。川崎栄子の人生振り返り、10回目をお届けしたいと思います。

 

朝鮮学校での2学期の生活も、だんだん朝鮮学校の雰囲気に慣れて行ったと言いますか、普通の高校生活を送りながら、午後には下校の途中で週3回、前にお話しした韓国語教室の運営もきっちりこなしながら、規則正しい生活を、送っていました。

■ ロシア語に精通していた塚本先生

そして3学期も無事に終わって、終業式の日、下校しようと思っている時に、運動場の片隅で、一人の先生から「川崎さん」と呼び止められました。

 

その方は塚本先生とおっしゃる、私が通っていた京都朝鮮学校に、唯一いらっしゃる日本人の先生でした。日本語の時間を担当していらっしゃいました。その先生は、京都大学のロシア語科を卒業された先生でした。

 

そしてその頃、ソ連で行われた、世界青年総合カーニバルの日本代表団の通訳として行って祭典に参加し、ソ連各地を回っていらっしゃった、そういう経歴の先生でしたし、その頃、日ソ国交正常化が実現して、ロシア語の通訳が引っ張りだこの頃でした。大手の貿易会社でもそうですし、政府関係でもそうですし、ロシア語の通訳が足りなくて、本当にすごい高額の報酬であちこちから引っ張りだこの感じでした。

■ 「君はやっぱり朝鮮人だね」

そういう経歴を持つ先生が、京都朝鮮学校にいらっしゃいました。その先生から呼び止められたわけです。そして「何でしょうか」と私が先生のところに近づきますと、「川崎、君はやっぱり朝鮮人だね。」とおっしゃいました。

 

「え?」というと、「君も知っている通り、僕は京都大学を卒業した人間だ。そしてロシア語を使ってどこででも働ける。そういう立場にあったが、朝鮮語を習うためにこの学校へ来ている。ひと月12000円。それも、もらえるかもらえないかもわからない。そんな状況の生活をしている。でも僕はどうしても朝鮮語が習いたいんだ。そのためにこの学校の先生として就職しているが、僕は君よりも少し早くこの学校へ入ってきた。僕は1年ともう少し経つし、君は1学年が終わった今日現在、君と僕の朝鮮語水準を比べてみると、君の方がうんと上だ。だから僕は君は朝鮮人だと言ったんだ」。

 

「当たり前でしょう、先生。私は父も母も朝鮮半島の出身ですよ。私自身は喋れないし、書けないし、そんな状態でしたけれど、小さい頃から家の中で両親が話すのを聞いていましたから、なんとなく意味は分かっていましたし、そういう雰囲気の中で生活していましたから、正式にこの学校へ来て朝鮮語を習った時、速度が早いのは当然のことではありませんか」と言いました。

 

そうしたら「悔しいけど、それが本当のことみたいだね。でもこれからも僕は朝鮮語を一生懸命習っていくので、君といつでも競争したいと思っている。」とおっしゃいました。

■ 印象に刻まれた塚本先生

私はそれまでは塚本先生という先生にあまり好感がなかったと言いますか、大して気にかけない先生でした。ただ入学試験の時、日本語で試験を受けたのですが、その時に作文を書く問題がありました。

 

そこにたしか「ふるさと」という題名だったと思うのですが、私はとっさにその題名を見て、「私にはふるさとというのが2つの意味があります。両親の故郷である朝鮮半島が私のルーツですが、私が生まれ育った日本が「ふるさと」という意味では、正しいのではないでしょうか。それが一致する人々、純粋な日本人、ご両親が日本人で、自分が日本で生まれ育った、そういう方はとても幸せな方だと私は思っています。でも私はそうじゃない、少し複雑な人生を歩んでおりますが、故郷という単語を見た時に、私はこういうことを考えました」と作文に書いたんですよね。

 

そうしたら一番最初の日本語の授業の時間に、塚本先生が入っていらっしゃって、「川崎という学生は誰だ」とおっしゃいました。私が「はい」と言いますと、「君、どこの中学校を卒業した」とおっしゃって、私が自分の中学校の名前を告げますと、「そうだったんだ」と言って、それ以上のことはおっしゃいませんでした。

 

だから塚本先生に対する私の印象というのはそんなに他の先生よりは影が薄かった感じだったのです。しかしその時、そういうお話をされたことによって、ちょっと「あら、結構、芯のある先生なんだな」という印象を受けました。

■ 北朝鮮へ渡ってから聞いた先生の消息

でも塚本先生とはそれ以上近づくこともなく、北朝鮮へ行ってしまったのですが、その後、私の同級生が数十年後に北朝鮮を訪問してきた時、その先生の話をしてくれました。「塚本先生は記憶にある?」「覚えているよ」と言いますと、「私たちよりも一つ学年が上だったセンジっていう方がいたよね。塚本先生はその方と結婚してね、それで関西外国語大学の朝鮮語講座の第1代目の朝鮮語講座長になったんだよ。そして日朝辞典を出されたんだけど、今出ている日朝辞典のうちでは一番内容の充実した辞典なんだよ」と消息を伝えてくれました。

 

「ああ、そうだったんだ。あの時どうしても朝鮮語をマスターしたいとおっしゃっていた先生が、やっぱり朝鮮語の専門家になったんだ」と思った時に、ちょっと嬉しい気持ちでした。

■ 朝鮮学校の教育が間違っていたと分かった現実を、先生はどう受け止めているのか?

だから日本に帰ってきた時、最初の頃に、その大学へ連絡を入れてみました。そうしたらその先生はもう退職されていました。お年ですから。だから学校を通じて一度お会いしたいという連絡を入れたのですが、その先生からは、「お会いしたくない」という拒絶の返事が戻ってきました。

 

ちょっと心外だったのですが、その話を私の同窓生に話すと、「会えない理由があるんだよ。その先生はね、奥さんと仲がうまくいかず、離婚されたの。だからそういうことをあなたには話したくなかったんじゃないの。だから会いたくないとおっしゃったんだと思う」と説明してくれました。

 

でも私はそういう人間関係ではなくて、朝鮮語を絶対に勉強したいんだとおっしゃった時の先生の姿を覚えていますので、そういう方面での話をお互いに分かち合ってみたかった。またその頃、塚本先生も、朝鮮学校で教えている北朝鮮よりの教育が間違っていないと思っていらっしゃったから、そこで教員をしていらっしゃったと思うのですが、それが間違っていたと分かった現実の中で、どう思っていらっしゃるか、そういう話も少ししてみたかった。本当の心と心でもって話をしてみたかった、そういう気持ちがありましたので、とても残念な気持ちでした。

■ 再会は叶わず

ところがその後、私がお近づきになった先生の中でその大学の朝鮮語科の第1期卒業生がいらっしゃいまして、塚本先生のことをよくご存知である先生と私が偶然お会いしたわけです。そして過去の話をしますと、「あ、僕と一緒に行こう。必ず合わせてやる!」そうおっしゃっていたのですが、残念ながらそれは実現しませんでした。一緒に連れて行こうとおっしゃった先生がお亡くなりになってしまいましたので、実現不可能になりましたし、塚本先生もまだご存命かどうかわかりません。そういう人生の1コマでした。

 

今日はこれぐらいにさせていただきます。