今日は嬉しいお知らせです。(北朝鮮を相手取った裁判が開始されます/2021年8月17日/川崎栄子)

 

(北朝鮮の極端的恐怖 2021年8月17日)

■ 北朝鮮政府を相手取った裁判、三年を経て開始。

皆様こんばんは。昨日はとても嬉しいことがありました。

それは私たち5人の脱北者が、1人1億円ずつの損害賠償金をかけて、北朝鮮政府を相手取った裁判を起こしていたのですが、いよいよ裁判が実施されることになりました。

 

2018年8月20日に私たちは東京地裁に北朝鮮政府を相手取った裁判を始めました。そして3年の月日を経て、やっとそれが実現されることになりました。本当に大変な道のりでした。

■ 在日コリアン帰国事業の嘘

昔、日本に住んでいた在日コリアンが、北朝鮮の金日成と朝鮮総連によって、「北朝鮮は地上の楽園だよ、税金はないよ、教育費はタダだよ、医療費もタダだよ、住みたいところに住めるよ・・・」。そういう色々な「地上の楽園」という「絵」を見せられて、「日本でいじめられながら、職もまともにつけないそんな状態で暮らしていく必要はないよ、北朝鮮へ行って堂々と北朝鮮の国民として生きていけばいいんだよ、そして何年かのうちには、朝鮮半島は金日成のものになるから、その時には故郷に錦を飾ればいいんだよ・・・」。そういう宣伝に騙されて9万3340人という人々が北朝鮮に渡りました。その中には1800人の日本人妻と6800人の日本国籍保有者、つまりお子さんたちですよね。そういう人たちも含まれていました。

 

北朝鮮に着いた途端に、私たちは「あ、騙されたんだ」と分かりました。「いらっしゃい、いらっしゃい」と、北朝鮮の金日成は「いらっしゃい、いらっしゃい。私たちは日本で苦労することを望みませんよ、同じ同胞として歓迎します。」と言いました。それに対して朝鮮総連がわーっと宣伝をし、そして北朝鮮へ行きましたが、行ってみたら実際はそうではありませんでした。

 

日本からの帰国者というのは、資本主義社会から来た人間として、社会の一番下の方に位置づけられました。北朝鮮は徹底した階級社会です。だからそのために本当に職業にもまともにつけず、労働者以外には絶対になりませんでした。そして軍隊にも行けませんでした。最初は警察官にもなれず、軍隊にも行けず、国家公務員にもなれず、本当に自分の労働力と技術力を売るだけの、そういうところでしか働けませんでした。

 

そしていつも日本から来た帰国者として政治的に批判されたり、ビクビクして生きていかなければなりませんでしたし、実際に「これ、おかしいんじゃないの?」と言っただけでも生首が飛ぶ、そういう状況の中で、たくさんの人たちが犠牲になりました。

■ 多くの人が精神を病んだ。自殺する人もいたが・・・。

まず最初に、精神力の弱い人は、精神がイカれました。私の友達のご主人なんかは北朝鮮についてすぐに精神を病んだのですが、私が脱北するその時(43年後)にもまだ精神病院に入っていました。

 

その次は、そのあまりの現実に、自殺者がどんどん出ました。ところがその自殺者の処理を見ていると、その後自殺するわけにはいかなくなりました。自殺者が自殺したと認められた時点で、その家族はその死体に触ることができません。警察がむしろを1枚持ってきてグルグルと巻いてパット持って行ったらそれで終わり。その人に対する記憶は全部家族から消せということです。死んだ人に対して色々と韓半島の人たちがやることがありますよね。命日にいっぱいごちそうを並べて祭事をするとか、そういうこともしてはならない。抹殺するんだということです。そしてその死んだ人の処理が済んで何ヶ月かすると、一家が全部どこかへ連れ去られてしまう。追放されてしまう。

 

そういうのを目の当たりにして自殺することもできない。死ぬことも許されない、そういう過酷な現実の中で帰国者たちは生きて行かなければなりませんでした。

■ 90年代後半の「苦難の行軍」と脱北の決意

私は数十年の間に国家というものが、政治がダメになるとどういう風に落ちていくのか、どこまで落ちるのかというのを、身を持って体験しながら生きておりました。

 

そして1990年代の後半になって、大量餓死の時ですよね。何の罪も犯していない北朝鮮の人々が、数百万の人たちが、餓死しました。それは本当にこの世の地獄でした。私は自分の目を疑うだけじゃなくて、自分自身の精神を疑っていました。「こんな有様を見ても私はどうして精神異常にならないで、まだ何かを考えることができる頭が残っているのだろうか」と、異常じゃないかと、私は自分自身を異常だと思っていました。

 

そういう時期を過ごしながら、私は「どうすればこの国が何とかなるのかしら、それは私自身が国外に出るより方法がない、国の外に出て広い世界の人たちにこの惨状を知ってもらわなければならない、知らなければ協力できないから・・・」。そういうことを考えまして、脱北を敢行しました。

 

脱北する途中で死んでもいい、という覚悟で脱北しましたが、幸いにも生きて日本に戻ってまいりました。

■ 帰国後、本の出版と北朝鮮人権活動の開始

そして私が日本に戻ってきた時は、私は京都出身ですから、母と一緒に京都で2年ほど過ごしました。その2年間に私はパートで働きながら、一冊の本を書きました。『日本から北に帰った人の物語』。

 

そしてその後、東京にいらっしゃる北朝鮮関連団体の方から、「東京に来て一緒に活動しましょう」というお誘いを受けまして上京してきました。

 

そしてその後何年かして私は独立しました。そして今のモドゥモイジャという小さな団体を立ち上げました。その団体を立ち上げて私がやったことは、北朝鮮のことを知らせたり、訴えたりするだけではなく、法律で裁くようにしなければならないということです。

■ 「誰であっても、一人の人間の自由と人権を踏みにじることはできない」

私は、個人であろうと団体であろうと、強力な力を持っている国家であろうと、一人の人間の自由や人権を踏みにじることはできない、というのが、私の持論でした。それを犯した相手は法律で裁かれなければならない。私が人生で持っていた持論だったのですが、それを実践に移すことにしました。

 

そして一番最初は裁判というのは不可能だということになりまして、2014年1月15日に、日弁連に「人権申し立て書」というのを提出しました。

 

そしてその次は、2018年2月に私と国際弁護士さんがハーグへ行きました。オランダのハーグの国際刑事裁判所に行って、北朝鮮の金正恩と朝鮮総連のホ・ジョンマンを提訴しました。

 

その時どうして私1人で行ったかというと、相手がどんな強力な国家であれ、個人であれ、1人の人の人権や自由を踏みにじることはできないということを、国際社会に広く知っていただくために、敢えて私個人の名前で提訴しました。

 

その時、拉致関連の団体の方々が私より先にハーグへ行かれたのですが、その方たちはその場で却下されたそうです。でも私の提訴はその時は、書類を受け取ってくれました。そして帰ってきました。そして半年ぐらい経った後で、却下されたという連絡があったそうです。

■ 裁判が開始される興奮と喜び

そして最後に実施したのが5人の脱北者が1人当たり1億円ずつの損害賠償金、総計5億円の損害賠償金をかけて、北朝鮮政府を相手取って、東京地方裁判所に裁判を起こしました。それが2018年8月20日のことでした。そして3年が経った今、やっとその裁判が実施されることになったのです。

 

本当に長い道のりでした。私は午前中の私と弁護団の先生たちの弁護団会議が終わって、ちょっと一休みしている時に、弁護団の先生から「川崎さん、公示送達がされたので、東京地方裁判所へ来てください」という連絡を受けて飛んで行きました。私はもともと公示送達というのは大きな紙に書いて張り出されるものだと思っていました。公示送達というのは相手が裁判に参加できない場合、先に行う裁判としてそれを公示する。だからでっかい紙に書いて貼り出されるものだと思って行きましたら、そうではなくて、公示送達用の掲示板の右の端の一番下のところに、紙2枚に書いて貼り出されてありました。

 

本当に涙が止まりませんでした。やっとここまでたどり着いた。本当に悪事を働いた相手を公の場で、裁判という場所で、決着をつける、それが決まったとすごく興奮しましたし、涙を流しました。

 

 

その場所には事前に知らせることができませんでしたから、裁判所の中にある記者クラブにいらっしゃった各新聞社の方たちが数人いらっしゃいまして、取材も受けましたし、昨日の午後の新聞から色々なところに掲載されていますので、その中で皆さんがご覧になった記事もあるかと思います。

■ この裁判で終わりではありません。応援をお願いします。

そして10月14日、東京地裁で、私たちが北朝鮮政府を相手取って起こした裁判が行われます。皆様、ご関心のある方は、是非公聴にいらしてください。公聴席を取るのは抽選だそうですから、並ばないとだめだと思うのですが、関心のある方々は参加してくだされば感謝します。また、この裁判で私たちの活動が終わるわけではありません。これからもずっと活動は続けていきますのでその応援も、これからもよろしくお願いいたします。

 

今日は嬉しいお知らせだったのですが、ここまでにさせていただきます。ご視聴ありがとうございました。

 

(※この裁判は、2023年6月29日現在、継続中です)