京都朝鮮学校の生徒と規律(川崎栄子)

(YouTube「北朝鮮の極端的恐怖」2021年7月15日より)

皆さま、こんにちは。

川崎栄子の人生振り返り、今日は6回目をお送りします。

 

今日はまた学校生活に戻りますね。

■ 朝鮮学校にきていた学生の構成

 

朝鮮学校の学生さんたちの構成というのは、朝鮮総連系のコリアンの方達の中で、公立高校には入れないけれども、親御さんが私立高校に通わせるだけの経済力をお持ちの学生さんたちが基本です。また私のように一学年に1〜2人は、成績が良くても何らかの理由があって朝鮮学校に入ってきた学生がいました。そして、うんと成績は悪いのですが親御さんが多額の寄付金を朝鮮総連に出せるという学生さんもいました。また、特殊なケースではあるのですが、韓国から密航船に乗って日本に入ってきて外人登録がないために日本の学校には入れないし、もしも尋問にあったら逮捕されるという学生さんたちもいました。朝鮮学校が隠れ蓑ではなかったのですが、そのような特殊な学生さんも、けっこうな数、いました。

■ 「この地域に朝鮮学校はあり得ない」

四月一日から学校が始まったのですが、学校では「規律と礼儀」に対する要求がとても厳しかったです。毎週月曜日の朝、朝礼があるのですが、その度に校長先生は、学生たちに本当に強い態度で「規律正しく礼儀正しく」を求めました。

 

それはどうしてかと言いますと、京都朝鮮学校の立地条件に理由がありました。京都朝鮮学校は銀閣寺の正門から左側に少し入って、すぐ近くにありました。学校の校門の前に到着するまで、運動場も校舎も見えません。校門の前に到着して初めて全景が見える、そういうところに京都朝鮮学校が建てられていました。

 

その学校を建設している間、町内会の人々や議会の人たちはそれが何を建てているのかを知らなかったそうです。「銀閣寺が近いところなので、どこかの宿泊施設でも建てているのだろう」くらいに思っていたそうです。

 

ところが4月になって朝鮮学校が開校しました。その時初めて町内会も議会の方々もびっくり仰天したわけです。そして学校の校長先生と教育委員会の会長さんが呼びつけられました。即刻、退去するように強く求められたそうです。

 

「この地域の中に朝鮮学校が存在するというのはあり得ないので、即刻、退去してください」と言われて、校長先生と教育委員会の委員長さんは、3ヶ月の猶予を申し出たそうです。本当にお願いして、頭を下げて、しつこくせっついて、やっと3ヶ月の猶予をいただいて帰ってきたそうです。

■ 「絶対に日本の高校生といさかいを起こさないように」

だから、校長先生が学生たちに厳しい生活を要求したわけです。学校では毎日先生と学生の役員による登校生の服装チェックが行われました。その頃、男子学生たちの間ではマンボウズボンというのが流行っていたのですが、一切、履くことはまかりならぬ。頭も普通の学生のようにきちんと刈りなさい。女子学生は膝下3センチ。今の女子高生たちが聞いたらおかしいですよね。「膝下3センチ?」それって何?って思いますよね。でもその当時は膝下3センチのスカートというのが、女子高生の普通のスタイルでした。ですから女子学生にはそれを要求したわけです。本当に厳しかったです。

 

特に、礼儀正しさということについても強調されました。「日本の方にあったら、本当に礼儀正しくしなさい」また、「日本の高校生たちと絶対にいさかいを起こさないように。喧嘩を吹っかけられたら逃げなさい」とまで言いました。朝鮮学校の学生が喧嘩をふっかけられて逃げるなんて思いませんよね。でも校長先生は「逃げなさい、構わないから、絶対に喧嘩をするんじゃない」。そういう風に厳しく言い渡しました。

 

その先生方の努力に学生たちも応えたわけですよね。そのおかげで3ヶ月は無事に過ごすことができましたし、その後も、学校を続けることができました。それが、今日まで続いている京都の朝鮮学校です。

■ 京都を一望できた京都朝鮮学校

朝鮮学校は本当に良いところにありますよ。校門の前まで行くと広い運動場があります。その運動場の向こうに、数段の高さがあって、階段を上がったところに木造二階建ての第一校舎がありました。それが高校生の校舎でした。そしてその後ろ側にまた数段高くなって、階段を上がったところに同じ規模の木造二階建ての校舎がありましたが、それは、中学生用の校舎でした。

 

高校生の校舎は一階は職員室とか事務室とか、そういう学校に関する部屋が面積を占めていまして、校舎は2階だったのですが、2階の窓から見下ろすと京都市内が一望の元に見えました。本当に素晴らしい展望台みたいなところでした。私はその2階の窓から京都市内を見下ろすのが大好きでした。そういう環境の中で、京都朝鮮学校の生活が出発したわけです。

■ 先生方による北朝鮮宣伝と戦後の社会的雰囲気

入っていらっしゃる先生方は、各科目の担任の先生、すべての先生が、北朝鮮の社会主義国家は素晴らしいというお話を必ずされました。「社会主義国家は素晴らしいんだよ。その中で、北朝鮮というのは特別素晴らしいんだよ。まず、税金のない国だよ。そして、教育費がありませんよ。病気になっても治療費がかかりません。タダです。住宅もタダ同然で貰えます」。色々なお話をされました。

 

今考えたら、学生たちにそういう特殊な政治宣伝は良くないことですよね。でもその頃はあまり強い反発を感じませんでした。それはどうしてか?第二次世界大戦で世界中が戦争になり、ドイツ、イタリア、日本をはじめとする独裁ファシスト政治の恐ろしさをみなさん身に染みて感じていましたよね。

 

そして第二次大戦が終わってやっと、落ち着いた平和の生活が戻ってきました。そして第二次大戦が始まる時にはたった一つしかなかった社会主義国家、ソビエト連邦ですよね。そのたった一つしかなかったソビエト連邦が、ソビエトまで攻め込んで行ったヒトラー軍を追い出すために、ヨーロッパまで進撃しました。その時、ソ連軍が通過したヨーロッパの国々はみんな社会主義国家になりました。だから第二次大戦が終わった時点で、16カ国の社会主義国家が出来上がっていました。

 

そういう状況の中で人々は、「もしかしたら資本主義よりも社会主義がいいんじゃないか」という風潮が社会のみなさんが思っていて、そういう雰囲気があった、そういう時代なんですよね。

 

だから学校で先生たちが学生たちにそういう宣伝をしても、あまり強い反発を感じないで過ごしていたといいますか、そういう状況の中で学生生活を送っていました。

 

今日はこれくらいにさせていただきます。

 

ご視聴、ありがとうございました。